2014.11.24

小島毅先生(東京大学人文社会系研究科教授)へのインタビュー

インタビュアー:鍾 以江(東洋文化研究所)

小島毅先生(東京大学人文社会系研究科教授)

先生のご研究についてお聞きしたいですが。

小島毅です。人文社会系研究科におります。専門は中国思想史特に儒教歴史、なかんずく朱子学を研究しております。朱子学は中国のみならず韓国、ベトナム、そして日本にどのように広がっていたか、そしてそれぞれの地域にどのような違いがあるのか、ということに関心を持って研究をしております。わたくしは日本人ですので、儒教は日本にとっても重要な問題であり、中国思想の中でも儒教の研究を始めたのには、私が日本人だというところがあると自己分析をしています。

先生のご研究は、ほかの研究とどう違うのでしょうか?

日本人の儒教研究者はこれまでも日本の儒学や韓国の儒学を含めて研究してきました。そうした中でわたくしが日本の歴史の文脈のなかで、儒教というものがどういう役割を果たしていたのか、中国のものとどう違うのか、というところに問題の関心があります。より具体的に申し上げますと、日本の場合、十九世紀の半ば所謂明治維新のころまで儒教は主流ではありませんでした。日本は仏教国でした。これは中国や朝鮮との大きな違いです。それはなぜなのか? そしてもう一つ明治維新以降、むしろ儒教道徳は、教育現場を通じて国民に広められることになりました。これはすでに言われてえる思想として機能してきました。ただ、この点についてこれまでの研究は、渡辺浩先生(日本思想史)らの例外を除けば、日本の近代史の文脈の中で限って考える立場だったかと思いますが。わたくしの場合にはその前の段階での日本の儒教受容を中国の儒教の展開と比較しながら考えています。

東大の広い意味での日本研究について、ご意見を聞かせてください。

東京大学の創立経緯にさかのぼって話をさせていただきますと、1877年に設立されたわけですが、建学の趣旨として、西洋の近代科学を日本に導入し、日本の近代化をめざした大学であります。江戸時代に徳川幕府が昌平坂学問所という官立の学校を作っておりましたが、ここの教育内容は主として儒学でした。東京大学はその流れを受け引きつきながらも、内容的にはこれを断ち切って西洋の学術を導入するという目的で作られたわけです。日本についての研究というのは、東京大学の中で最初から主流ではなかった。もちろん、文学部の中に日本文学の研究、日本語の言語学的研究、日本の歴史の研究をする講座は設けられましたが、それらは西洋の学術のやり方によって、江戸時代までの学問とは大きく違った形で始まっているわけです。これはずっとそのまま現在にまで至る東京大学の特徴であり、また広く日本の多くの大学の特徴です。つまり、日本それ自体を自分たちの伝統文化の中から考える意識はそれほど強くはなかったと思います。もう一つ歴史的に申しますと、二十世紀半ばまでの不幸な歴史の問題があり、この時に東京大学文学部では国策に沿う形で日本精神、日本思想を研究する講座を持っていたのですが、敗戦後なくなってしまいました。もちろん大学院人文社会系研究科・文学部の中に日本についての研究者はたくさんいますけれども、日本研究として自覚的にされている部分が方法的な面で学問分野の壁を超えて、みな一緒に日本を研究しているのだという意識はやや薄いように思います。もちろん優れた日本研究者はわたくしの同僚にたくさんいますけれども、社会科学の方面と共同で作業するという形では必ずしもこれまでなされてこなかったと思います。それを如何にこれから打ち立てていくのが東大の今後の課題だと思います。

海外の日本研究についてのご意見を教えてください。

私は日本研究の専門家ではないので、海外の日本研究についてよくは知りません。そうした門外漢の感想として、日本における日本研究は主として日本語でなされるわけですね。そして海外の方が日本に来てそうした分野を研究する場合も日本語を用いて行われるわけですが、世界的には日本語ではなく英語であるとかあるいは中国語による日本研究がなされているでしょう。そうした方々が海外にいるからこそ見えている日本の像というのがあるはずです。そうしたものと日本で行っている日本研究との連携・結び付きというものがうまくなされてきたのかどうか、もしうまくなされていないとすればどうやって結び付けていくのか。別の言い方をすれば、日本人が日本語で非常に優れた論文を書いても海外の研究者に読んでもらえないという問題があります。もし、海外でそうした研究が知られていないとしたら、その研究は海外の研究者にとっては存在しないのと同じことになります。

もう少し具体的に話していただけますか?

私は中国研究者なので中国のことしか具体的にわかりませんが、日本についての認識が、私が付き合っている中国の研究者の方々の場合に、日本ではすでに学術に指摘されており、もっと新しい形で描かれている問題がまだ十分理解されていない。日本において四十年前、五十年前に通説であったようなものが今でも大勢の中国の方が日本論の中でそのまま引いていたりします。これはその研究者自身の先行研究探索不足でもありますが、もう一方では日本側がそのことをきちんと海外に発信していないということかと思います。それは中国以外の諸外国についても同様ではないでしょうか? これは世界的な人文学の問題でいうと、非常にもったいないことだと思っています。
一つは言葉の問題ですね。日本については日本語で書いたものを読みなさいというふうに開き直るだけではなく、日本で今まで既に書かれた優れた研究書を英語や中国語やそのほかの言語に翻訳して紹介していく作業、これが一つです。もう一つは、今私たちが研究している内容を、自分たちが積極的に海外に出かけて行って、その国の人たちがわかる形で提示する。いまは国際学会が非常に多いわけですからそういうところで話すという手段もあるでしょうし、機会があったら英語や中国語やそのほかの言語で論文を書いたり翻訳してもらったりして、それらの言語を使う人たちに読んでもらうということもできます。
もう一つは問題意識を共有するということでしょう。日本の中の日本研究は自分たちの問題意識で進められてきたわけですが、これは先ほど申し上げた東京大学の創立事情ともかかわります。すなわち、日本の中で西洋の学術を導入し、自分たちのものにするというのが主目的だったわけです。しかし、この国際化の時代にあって、一方ではそうした日本独自の問題を大事しつつも、もう一方では世界的にはなにが問題になっているのか、そして世界的にはいま日本の学問特に人文学が何を海外の研究者たちに向かって提示できるのか、問題を共有していないと先ほど申し上げた言葉の問題をクリアしてもその論文が何のために書かれているのか理解してもらえないでしょう。

問題意識を共有するといえば歴史問題が頭に浮かんできます。歴史を如何に共有できるのかについて、先生のお意見を聞かせていただけますか?

非常に重要でかつ難しい問題です。歴史認識とも関わってくるかと思います。一つには日本の中で日本の歴史を研究する、そして過去の一つ一つの事件をそうした流れの中に位置づける。この作業を日本人が日本のためにすること、これは重要だと思います。これは大前提です。しかし、そのことを海外の人にわかってもらわなくてもいいんだという形で独善的に語ることには問題があると思います。特に近代における東アジアの不幸な歴史についてそうです。この不幸な歴史について日本人があれはこういうことだったのだ、だから今まで言われてきた見方は歪んでいるのだという研究を学術的に誠実にするという立場がありうるでしょう。でも、それは日本人にしか通用しない言説でもあるわけですね。もちろん、私は中国や韓国の方々が持っている歴史認識のほうが全面的に正しいとは思いません。それは韓国や中国の方々の歴史認識です。そこには中国なら中国においてこの「不幸な歴史」で日本がどういう役割をしたかということについての理解があるわけです。これが先ほど申し上げた日本でなされている研究とは歴史認識の面で大きく衝突するわけですね。わたくしは、衝突自体はとても大事だと思っていて、問題を共有するかどうかというのは、ではなにがお互いに問題になっているのかということをきちんと話し合うことだと思います。一方的に「我々はこう思っている、お前たちの見方は間違いだ」ということを言い合っているだけでは、お互いに、それこそ「不幸」なことでなないでしょうか。学術的には歴史認識というのは、簡単に他者と共有できるものではないと思います。話し合えば必ずお互い分かり合って納得できるようなものではありません。しかしなぜ相手がそういう歴史認識を持つのか、そして他者が持っている歴史認識が自分にとって納得いかないものであるとすれば、それはなぜなのか、感情的にではなく、理性的に誠実に話し合っていく必要があると私は考えています。

国際総合日本学ネットワークの構築について、ご意見をお伺いしたいですが。

東京大学の中で日本に関する研究に携わっておられる方でも、必ずしも自分が日本研究者であると認識していない人は多数いらっしゃると思います。日本を対象とする人文学の場合はわかりやすくて自分でも日本のことを研究していると思うでしょうが、社会科学、自然科学などの場合には、研究対象・フィールドワークの対象がたまたま日本であるだけだとか、あるいは自分が日本人だから日本の中の様々な問題・課題について研究しているという立場の方が多いと思います。たとえば、3・11大震災あとの復興に携わる研究をなさっている方々が多くおられますが、これらの方々に日本の研究をしているという意識は必ずしもないと思います。日本の復興について具体的に役に立つような工学的、農学的、社会学的な研究が、「日本研究」とは考えられていないという意味です。でもそうした研究は、国際的に見た場合、「日本の復興」をテーマにしているわけですから、これはやはり日本研究とみなされると思うんですね。このように、自分が日本研究者ではないと思っている方々もうまく巻き込んで、日本に関する研究、日本を対象とする研究を広く束ねたネットワークが広がり、東大の中の学術資源をうまく連携させることによって海外からも見えやすい形で提示する。東京大学ではこのようにして国際的に自分たちの国日本についての研究を横断的につなげているのだと示すこと、これは日本でしかできないことだし、われらが東京大学の世界的な使命ではないかと思っています。