松方冬子准教授(東京大学史料編纂所)へのインタビュー
鍾 以江(東洋文化研究所)
松方先生、今日どうぞよろしくお願いいたします。まず、先生のご専門をお聞きしたいです。
私は学生時代から近世の日本史を勉強して、最初は大名家のことを研究しておりました。就職してからオランダ語の史料を使い始め、オランダ風説書という文書の研究で博士号を取りました。最近は外交史をやりたいと思っています。日本語とオランダ語しか使えないのですが、日本人とオランダ人の接触を日本とオランダの関係史としてではなく、もうすこし広く外交の世界史の中に位置付けたいと思っています。
オランダ語を読む関係で、蘭学研究をやっている方々ともお付き合いがあります。蘭学にもちょっとずつ興味を持ち始めております。先生のホームページを見ますと、「国書」という史料を扱っているみたいですね。
はい。そうです。日本では前近代の外交史を語る時、「国書」が、ごく普通の言葉として教科書だけでなくいろいろな本に書いてあります。でも、ちゃんと研究されたことはたぶんありません。そもそも「国書」という言葉がいつどこで生まれたかもわかっていないので、日本人の常識を疑うことから出発しています。
「国書」の「国」というのが何だったかということですね。
そうです。「書」とは何ですかっていうことでもありますね。
大学院の時、オランダ語を勉強されましたね。はい、少しずつ。
日本でオランダ語を利用して、研究している学者は多いですか?そんなには多くないですね。専門的にできる、また江戸時代を専門にしている人でたぶん20人くらいだと思います。
そんなに少ないことではないですね。20人というのは。でも日本近世史を研究している人はたぶん千人以上いるので、その中では少ないですね。戦前は、むしろメジャーな研究分野でした。特に東京大学では、最初に近代歴史学を始めた時に、お雇い外国人でドイツ人のルートヴィヒ・リースという人がこういうものがありますよって紹介して、研究が始まったので、オランダ語史料は比較的メジャーな史料だったのです。
出島に残った史料ですか?そこに残っていたものが今オランダにあるのですが、明治になってオランダに運ばれたものもあれば、江戸時代の内にオランダに運ばれたものもあります。これは、「日本商館文書」と言います。それからオランダに元々あった史料もあって、これは「オランダ東インド会社文書」に含まれます。戦前は日本国内の史料があまり紹介されていなかったのですけれど、戦後、農村史料の調査がものすごく盛んになって、各市町村に郷土史家といわれる専門家がいるような状態の中でプレゼンスも小さくなったと思います。かつ、戦前の歴史学が日本を悪い方に導いてしまったっていう意識がありますが、それをきちんと学問的に検証してないのですよね。
歴史学史ですか。そうです、史学史の問題でもあります。私は今それの勉強もしているのですけれど、戦前に特に台湾の台北帝大、日本の帝国大学ですが、そこでオランダ語史料を使って日本人の海外発展の歴史を勉強したのですね。
そういうものが太平洋戦争の時に日本がやった悪いことのバックグラウンドにあるのではないかという反省があって、いわば意識的に、もう農村をやろうと、国内をやろうというふうになったところがあるのではないかと思います。今、もう1回オランダ語史料を使って外のことをやろうと思った時に、過去のことがほんとに駄目だったのか、あるいは、駄目なところもいいところもあったとすると何が駄目で何がよかったのかをもう1回考えないとできない。でも、そこが不十分だということですね。語学が苦手ということだけでは、説明できないと思います。 なるほど。戦争の歴史をどう超えるかという面がありますね。そういうことですね。一方で蘭学研究も壁にぶち当たっていると思っています。かつては、日本がなぜこんなに経済発展をしたのかという疑問から出発して、江戸時代から蘭学をやっていたからです、という答えを導き出す基本のストーリーがあったと思います。それは誰も言わなくても、何となく皆が共有していた研究の基盤だったのですが、今や日本はさほど繁栄しておらず、蘭学のなかった国がどんどん発展してきています。一方でヨーロッパもだんだん凋落していくと、今までの研究の土台が失われてきていて、若い学生さんたちはむしろ自分が世界とどう向き合うかを考えたいみたいな、私より上の世代とは違う意識でやっています。ですが、それの理論的な整理ができていないので、それはなんとか私たちの世代が頑張らないといけないと思っています。
一人の学者として自分とどう向き合うか、ということですか?そうだと思います。それは日本人として向き合うという側面と、自分が個人の研究者として向き合うという側面、たぶん両方あると思います。
これはもしかして、アメリカでも自己反省的な意識が学者としてのアイデンティティの一部になっているような動きと似ていますね。かもしれないと思います。私の知っているアメリカ人の研究者、ヨーロッパ人でもそうなのですが、アジアを研究している人っていうのは、何か自分のアイデンティティに不安と言うのか、考える要素がある方が多いように感じます。例えばユダヤ人だったり、植民地の出身だったり。それと近いと言えば近いかもしれません。
アメリカやヨーロッパの研究者は、ヨーロッパ中心主義を相対化しようとして、「グローバル」であろうとしている面があると思います。でも、実際には難しい。ヨーロッパ中心主義を相対化するためにやっぱり史料に立脚しなきゃいけないのだけど、ヨーロッパ以外で前近代の史料をたくさん持っているところが日本と中国に限られてしまうという問題があると思います。 そうですね。ヨーロッパを相対化するための重要な史料群として、海外でも、日本語史料にもう1回注目が集まっている気がしています。アメリカでも、今までは日本語の史料だけを使って研究している方が多かったと思いますし、それだけでももちろんすごいことですが、若い人で、母語の英語の他に、日本語だけでなく、例えばスペイン語の史料も読む、世界史の一部として日本史をやろうという方々がだんだん出てきているようです。それは、本当に頼もしいと思います。日本の若者にもぜひ学んでもらいたいと、思います。それによって、できることがたぶんものすごく増える。日本語史料だけでできることはかなりやってしまっていて、どんどん細かくなっていくばかりになっているので。
そうですね。もうちょっと自分の立脚点を見直しつつ、新しい分野をぜひ開拓していってほしいし、そのための史料的な条件はかなり整っていると思います。ただやっぱり、日本人が下手に海外に出て行ってはいけないというある種の伝説のようなものがあります。平泉澄という有名な皇国史観の先生がいるのです。彼はドイツに留学して。
松方先生の先生ですか。いやいやいやいや。そうじゃないですね。
違いますね。私の先生の先生は岩生成一という台北帝大にいたオランダ語を読む先生です。平泉澄は戦争中に国史学科、今の日本史学科を牛耳っていた先生で、その先生はドイツに留学して帰ってきてから皇国史観になったらしい。昔は普通の人だったのに、帰ってきておかしくなったと。だから留学なんかするものじゃないのだよ、留学はするのはよくないことだよ、と、私は学生の時に先輩に言われました。先生にも言われたし。
ごく最近もまた、日本人が外国で研究発表したりするのが一般的になるとよくないと言われたのですね、先輩に。理由は、平泉でした。少なくとも東京大学では神話のようにたぶん受け継がれてきていると思います。 これまた戦争の歴史と関係していますね。そうです。ものすごく関係しています。私、最近言っているのは、岩生成一も、それから戦後の日本近世史をある程度理論的にバックアップをした羽仁五郎というマルキシズムの思想家がいるのですけど、彼も国史学科の出身で、留学しているのですね。彼らは変にならなかったのだとすれば、なぜ変になった平泉澄の経験だけを殊更言うのかと思います。
面白いですね。なるほど。たぶん史学史的な検討がないと日本史の研究者は外へ出て行けないし、それをせずに出ていくと、もう1回失敗する可能性があるかもしれません。日本国を見ていただければもう1回失敗しそうだなっていうのは分かると思うのですけど、なぜ70年前と同じこと言うのだってことを言っていますよね。たぶんちゃんと考えないで問題を避けていただけなので、もう1回やろうとすると同じ結果になってしまうので、今きちんと考えるべきなのではないかと思います。でも、なかなか難しいですね。
そもそも1人のケースで、海外へ行くこと自体が駄目になるという考え方はあんまりにも。短絡的なように思うのですよね。なぜでしょう。
歴史ですね。いや、面白いと思います。だからそれは日本史学全体のありようの問題であるし、戦後の日本のあり方の問題も反映していると思うのですね。
先生がおっしゃった、昔で留学したのは、日本国史科の学生でしたか?それとも先生でしたか?先生になってからだと思いますね。
学生はやっぱり国内で日本語の史料を読んで研究して。でも戦前はオランダ語を読まされた人たちもいるのですよね。というより、特に近世史学は、戦前には、幕府の「通航一覧」、「徳川実紀」など、基本的な史料を活字化するぐらいのレベルでした。ほんとに一次史料を農村に入って調査するというのは、戦後のできごとなのですよね。それで急に仕事が増えたので、そっちに気を取られたっていうのはわかります。私も学生時代は農村調査とかも行かせていただいたので。
そうですか。それはすごくいい経験になっているし、今も必要なのですけれど。ただ、30年前はまだ農村に若者もいて、農村の人たちのいわば誇りのためにみたいなところもあったのだけど、今もう農村に人がいないので。
そうですね。ほんとに大変になってきていますよね。誰のためにやっているのかがだんだん分からなくなってきて。
民衆史の方ですか。必ずしも民衆史をやろうとしていなくても、そういう人が多かったですね。
それよりもっと早いですね。民衆史は60年代、70年代でしたね?私が学生時代は80年代です。
先生はもちろん若いです。でも農村調査が始まったのは1940年代の末ぐらいからだと思います。
そんなに早いですね。はい。早いですね。農地解放で地主さんたちが経済的に駄目になった、そういうのとリンクして史料が随分公開されるようになったのですよね。
なるほど。また民衆史とは違うのですね。やっぱり今でも日本史研究する場合、自分の研究のための外国語が必要でなければ、特に例えば日本語以外の英語とか外国語を勉強する必要がないと学生が考えているのですか。思われていますね。学生さんのことですか?
学生も指導教授でも。も思っていますよね。英語が苦手だから日本史をやっているっていう人の数は多いと思います。
そうですか。英語は中学、高校、大学の最初の2年、8年間はどうしても勉強しますが。そこで英語が嫌いだった人が日本史をやっているという側面は強いですね。
この考えがちょっと分からないですよね。どうしてですか。
いやいや。日本史好きだからではなく英語が苦手だから日本史をやるというのは、何かから逃げようとしているような感じですね。まあそうとも言えますね。
そのモチベーション自体にちょっと、がっかりしちゃうというか。そうなのですけど、言い方として、日本人で、これをしたいからやっていますって言う人はまずいません。あっちはできないから、こっちをやっていますって言う人の割合は非常に高いですよね。本当にやりたくてやっていてもそうは言わない人は多いので、そこは割り引かなきゃいけないですね。
なるほど。そうですね。よく言えば遠慮がちですね。
なるほど。これは面白いですね。理論について言うと、理論を学ぶ人もいるのですけど、それでも、理論は輸入するものだと思う傾向が強いです。学んだ理論と自分が読んでいる史料の実態とは違うから理論はやらないのだっていう人は多いですね。いや、それなら、自分が読んでいる史料から自分で理論を作ればいいと思いますね。
それができたら一番いいですね。一番いいですよね。自分の作った理論と、海の向こうの理論を比較してみればいいと思います。なぜ自分で理論ができてこないかと言うと、やっぱり狭い範囲しか見てないから自信が持てないのではないかと思います。今一応科学研究費を取ってやろうとしているのは、羽田先生のユーラシア科研(基盤研究(S)「ユーラシアの近代と新しい世界史叙述」)がすごく楽しかったからなのですが、それから学びまして、かなり広い分野の人たちで会話をすることによって、「国書」なら「国書」でも、ちょっと理論化できるように、他の分野の人にも分かる説明ができるようにという試みです。東洋史の人と西洋史の人と日本史の人で、日本史も近世だけじゃなくて中世史の人も一緒に入ってもらってやっています。
なるほど。確かにいろんな専門の方が入っていますよね。そうなのですね。そういうのは楽しいというふうに思ってはいます。
そうですね。国際総合日本学というような組織を作って、まさに先生と同じような考えだと思いますよね。いろんな違う分野の人、違う国籍の人、違う言葉を使っている人とコミュニケーションし、お互いに勉強し合うというような発想ですよね。先生の研究会と同じで、国際総合日本学はそのような考えがあります。さっき話した……。日本の学生が国際総合日本学のイベントに来ないことですか。
そうです。そういう問題というか、それについてどういうふうにお考えですか。それは思うにはまず大学院生の数が少ないです、今。日本史学科も。
少ないですか。あんまりいないのですよ、人が。ともかく今の40歳ぐらいの人の就職があまりにも悪くて、日本史は東洋史よりましだと言ってもよくないので、まず院生がいません。
いても、かつて経済が良い方向へ向かっていた時の仕組みというか、そのころなら良かったけど今無理な仕組みは、院生が先生のお手伝いとかに動員されている。例えば、学会をやる時の受け付けをやっていますとか、調査に行く時にも一緒に行きましょうとか、科研費グループの事務局をやっていますとか。アルバイトでお金もらっている場合もあるので、一概に悪いって言っているわけじゃないのだけど、ともかくそれで忙しい、いても忙しい。 今、留学生が増えているとおっしゃったけど、留学生には頼みにくいから日本人学生だけでやろうっていう意識もあって、少数の日本人学生に仕事が集中しちゃっているところがあるみたいです。逆にだから外国人は時間があるのだと思うのですね。 なるほど。面白い動きですね。なのでたぶんその仕組み自体を変えないと駄目ですね。ただ、先生が院生にそういう仕事を頼むのにも理由があって、先生に秘書とかもいないし、事務職員もどんどん減っているので、全体の仕組みがちょっとうまくいっていないように思います。
そうですね。単に興味があれば来るだろうっていうような状況ではないと思うのですね。
ではないのですね。なるほど。これは大きい問題ですね。海外に行くと、例えば日本史に関する日本語の論文があんまりネットで見られないのですね。中国とか韓国の雑誌はあんなに見られるのになんで日本は見られないのだ、なんとかしてくれ、というような声を聞きます。やっぱりたぶん中国とか韓国はもうちょっと国家が後押ししてお金も付けて発信しようとしていて、それと比較してしまうのでしょう。その1つは政府がお金を付けてくれないというのがあるのですけど、では日本政府がお金を出すから国威発揚のために日本史をもっと宣伝しなさいといったとして、日本史研究者がそれに協力するかというと、ちょっと微妙ですね。むしろ反対意見がいっぱい出ると思います。なので、やっぱり元に戻って、もうちょっと自分自身を考え直し、また対話もしないと、たぶん次には行けないと思います。
最後、どんどん増えてきている留学生のことについて、先生、どういうお考えですか。私はあんまり学生を受け入れはしないのですけど、外国人研究員として来年度受け入れることになって、それは楽しみにしています。やっぱり日本史学がちょっと行き詰まっていると思っていますので、なぜやるかということをもう1回考えないと先へ行けないのに、みんな考えたくないみたいになっているので、新しい刺激を入れるしかないと思っています。なので、すごく楽しみにしています。
そうですね。いろいろお伺いできてよかったと思います。今日のインタビューはここで終わらせていただきます。はい。ありがとうございます。
どうもありがとうございました。