日本学として何を教えるか?
園田茂人(東洋文化研究所&東京大学大学院情報学環・学際情報学府)
私ごとで恐縮だが、2013年、有斐閣から『はじめて出会う中国』という初学者向けテキストを編集・出版する機会があった。「中国が世界的なプレゼンスを高める中で、日本人学生も中国を理解する必要が高まっている。実際、大学の講義でも、中国理解を目指した講座が開講されるようになってきているものの、信頼に足るテキストがない」――有斐閣の編集者による、そんな甘言に乗せられ、ほぼ1年の月日をかけて、脂の乗った中国研究者たちと一緒に悩み・考え、刊行にこぎ着けた。
テキストを編集するにあたって大切だったのが、テキストの読み手、つまりは初学者にとって、中国を理解したいと思う動機がどこにあるかを突き止めることだった。どんなに網羅的に事象をカバーしていたとしても、読み手の側に響かなければ、テキストとしての役割を果たすことはできない。単なる事象の解説だけならば事典で十分だし、すでに岩波書店から『現代中国事典』といった立派な刊行物が上梓されている。読者に届くメッセージを練り上げるには、テキストにストーリー性を持たせなければならない。
私たちは、このストーリー性を持たせる方法として、初学者がもつ原初的な問いを念頭に置くことにした。具体的には、(1)巨大な中国がどのように統治されているのかといった「ガバナンス」への問い、(2)経済成長とともに、どのような社会や政治の変化が生まれているのかといった「変化」への問い、(3)その結果、中国が周辺地域や国際社会とどのような関係を取り結ぶようになるかといった「対外関係」への問い、の3つの問いに答えるよう、テキストで教える内容を選択・吟味したのである。
これら3つの問いは、いかにも日本の初学者が中国に対して抱きそうな疑問・疑念である。では中国で生まれ育った学生が、このような問いを自国の政治や社会に対して抱くだろうか――そう考えてみると、私たちの国際総合日本学が抱える問題の一端が透けて見えくる。
もともと国際総合日本学は、海外で発展してきたJapan Studiesと、日本国内で蓄積された日本に関する研究との間で実りある対話を行い、新しい研究領域を開拓することをミッションとしている。海外から日本を眺める場合、ちょうど私が日本から中国を見たように、それぞれに抱きやすい疑問・疑念をもとに研究がすすめられやすい。ところが日本国内の「日本研究」は、日本を全体として捉えるというより、金融政策や少子化、国際化や投票行動、文化表象や芸術など、より具体的な対象やイッシューを前提に研究が進められているといってよい。
では、日本人学生と海外からやってきた留学生を一堂に集め、日本学として理解すべき基礎的な知識を授けるとなると、どのような事項を教えないといけないか。彼らを対象に新たなテキストブックを編集するとなると、どのような編集方針で臨まなければならないか。そもそも学生たちは、どのような日本についての問いを抱いているのだろうか。日本人学生と留学生とでは、日本について抱いているイメージや問いは異なるのではないか。だとすれば、こうした違いを超えて教えるために、どのような工夫が必要となるか。
本来、これらの課題は国際総合日本学の教育プログラムの運営委員会で議論すべきことなのだろうが、ちょうど私たちが1年間、中国をテーマにしたテキスト作りで悩んだように、一朝一夕で答えが出るものではない。研究プログラムのメンバーも、来年度から国際短期プログラムを作ることを計画しているが、その際、以上の問いを避けて通ることはできない。
何とも重たい課題を背負ってしまったものだと、つくづく思う。